3.
「春野さんである以前のあなたが春野さんを売った、といえば言葉は悪いですが一番近いと思います」
「はい?」
カシワギマサハルの言葉をまったく理解できなかった私は、怪訝な顔でそう言い返すしかなかった。
「前世、と言えばわかりやすいでしょうか?厳密には少し違うのですが、まぁ厳密である必要はないでしょう」
「はぁ」
更にイマイチわからない。
「春野さんの前世である人物が、自分の後世である春野さんを売ったんです。前世と言う言葉はご存知ですか?」
「一応」
雑誌などで目にすることがある程度で、専門的なことはわからない。
ただ、カシワギマサハルが私に専門的知識を求めているとは思わなかった。
「春野さんの前世がなんであったのか僕には知りようがありません。わかっているのは、春野さんの前世である人物が春野さんの命を売ったという事だけです」
「さっきから」
私はカシワギマサハルの座卓に載せられた長い指から視線をそらさずに言った。まるでそこに何か握られているかのように目が一点から動かない。
「さっきから、『売った』って言いますが、誰に?」
「悪魔です」
きっぱりとよどみなくカシワギマサハルは断言した。
「悪魔という言葉はもちろん正しいものではありません。それは特定の宗教の特定の存在です。ですが、はっきりと単語にして言った方が春野さんにはわかりやすいでしょう」
まさに、悪魔に魂ならぬ後世を売ったという事らしい。
「悪魔に代表される負の存在。春野さんの前世が契約を交わした相手です」
「契約ですか」
「何かの望みをかなえてもらう。そのかわり何かを差し出す。そういうことです」
非常にわかりやすい説明だったけれど、非常識ではあった。
「つまり、差し出されたのが自分の後世である私というわけですか?」
「そのとおりです」
教師が計算問題を解いた生徒に言うときのように、カシワギマサハルは正しい答えを導き出した私に対して誇らしげに言ったが、私は計算問題を解いた優秀な生徒ほど誇らしげな気分にはなれなかった。
むしろ、答えを出して混乱がいっそう増す。
「夢は悪魔が見せているのですか?」
「そうです」
「なんのために?」
「何のために、という疑問はこの際はあまり有意なものではありません。彼らには計算がありません。そうしたいからそうする、それが彼らの行動の全てです」
悪魔の事をカシワギマサハルは彼らと呼んだ。そこには親しみさえ感じさせる響きがある。
「春野さんが残酷な夢を見つづけるのは、それが彼らの望む事そのものだからです。いずれ夢だけでは満足できず現実の行動としてあなたの体を動かしてゆくでしょう」
心が激しく軋んだ。
現実になる?
「彼らとの契約は強く、春野さんの力でそれを断ち切る事は無理です。直接の原因が春野さんにはないにしろ、あなたはあなたの運命を直視しなければならない」
カシワギマサハルの瞳が空虚に鈍く揺らめいた。何も受け付けず、何も映し出さないような冷たい色のブルーの瞳。
「僕ならあなたを楽にしてあげる事ができると思います」
彼は私をこの家に誘った言葉をもう一度繰り返した。
「それを選ぶのはあなたです」
カシワギマサハルは言った。
「選ぶのは自分だ」と
ここにきて初めて、私は私自身で選ぶ権利を得たような気がしたのだ。
例え、残された選択肢がごく限られたものであったとしても。
カシワギマサハルは自分が悪魔の手から私を救うためにすることを、ゆっくりと私がどんな瑣末な疑問も残さないような語り口で説明した。
「僕にも彼らを消滅させる事はできません。春野さんの前世と彼らが交わした契約を反故にすることもできません。僕にできるのはただ一つだけ。春野さんの表層に彼らが現れないよう深く封印する事です」
封印という言葉をカシワギマサハルは使った。
「しかし、封印は一度成功したからといってそれが永久に持続するとは限りません。またいつ春野さんの心を侵食してくるかは僕自身にもわからないのです。だから封印するにあたって、僕から一つだけ条件があります」
「なんですか?」
「一生僕のそばを離れないと約束してください」
1.5メートルほど離れたところに座っているカシワギマサハルが、まっすぐに私の目を見てそう言い切った。
「決して僕の側から離れないでいてくれると約束してくれれば、僕は何度でも春野さんの心を蝕む彼らを封印しつづける事ができます。僕は一度あなたを救うと決めたからには一生守っていきたいんです」
こんなときにあまりにも不謹慎かもしれないし、当の当事者は私なのだからよくこういう状況におかれてそれだけの心理的余裕があったものだと我ながら感心してしまうのだが、私はこのとき思わず笑ってしまった。
カシワギマサハルにそういうつもりがまったくないのはわかっている。彼はただ悪魔に売られた私を救い出したかっただけだ。それはもうわかりすぎるほどわかっている。
何よりも、あまりにも瞳が冷たすぎた。
それでも私は、カシワギマサハルの言葉に笑い出さずにいられなかったのだ。
目の前でこらえきれない笑いをこぼしている私を、カシワギマサハルは困惑しながら見ている。
「何か、僕おかしなことを言いましたか?」
「だって」
だって
「だって、プロポーズですか?それ」
一生側から離れないでくださいって、それはプロポーズ以外の何物でもないような気がしたのだ。
「あ」
言った本人がようやくなんとなく私の言わんとしていることに気がつき、見ているこっちがおもしろくなるくらいにあわてふためいて言い訳をした。
「い、い、い、イエ、あの、そんなつもりではないんです。本当ですよ。そういう意味ではないんです。マイッタナ。春野さん中学生じゃないですか。なんで、そういうことに・・・・・・。本当ですよ、もう」
「わかってますよ」
場の空気が柔らかく溶けてゆくのを感じた。
私は救われるんだなと、なんとなくこのときに確信する。
今夜からは悪夢にさいなまれる事なくぐっすりと眠れるだろうし、明日からはまた元通りの生活が待っている。
「一生側を離れません。約束します」
もし、何かが変わるとするならば、私の横にはいつもカシワギマサハルがいることになるだろうということ。