2.
眠れない日が何日も続く。
私は眠れないと食べられないという事を知った。そして、食べられないと動けない。
体力は加速度を付けて奪われ、学校に行って帰ってくるという行為が困難になり始めていた。
体育の授業は見学が当たり前となり、そのほかの授業も集中力が低下しているためにまったく頭に入ってこない。椅子に座りながら意識を失う事もしばしばだった。
その日。
いつもと同じ学校からの帰り道。フラフラと歩いている私がカシワギマサハルの家の前を通り過ぎようとしたとき、彼は庭に咲いた桜の木を腕組みをしながらしみじみと眺めていた。
かすり模様の涼しげな和服と金髪がなんとも似合わないが、桜の淡いピンクとカシワギマサハルという存在がまるで溶け込むように一体で綺麗だった。
綺麗なものを見るのはとても久しぶりのような気がする。
毎日毎日陰惨な夢を見せられて、目を閉じると血の臭気が匂い立つような光景が目の裏を埋める。
しかし、目を開けて見る現実は綺麗だった。一生目を閉じなくてすむなら私はいつまででもこの光景を見ていたい。そう思うと涙が出た。
気持ち悪さにトイレで吐く涙とは質の違う、流す事に嫌悪感のない涙。
「あなたを楽にしてあげられるかもしれません」
桜の中のカシワギマサハルのその言葉は、私の心を溶かした。
「中に入りますか?」
「はい」
カシワギマサハルはただにっこりと笑顔を向けたのみで、だまって私を門の中に入れた。
桜の花びらの積もった敷石の道は玄関まで続く。そこまでは門前から何度か見たことがあったが、そこから先は完全な未知の空間。
そのとき私は例えこの人にバラバラにされたとしても、それはそれでかまわないという、あとから考えるとどうしようもなく自暴自棄なことをなんとなく覚悟していた。
それでもカシワギマサハルの誘いに乗ったのは、初めて会ったときのあの笑顔が今の彼にもあったから。
それから、私の夢の中に今までに一度もカシワギマサハルが登場してこなかったから。
私は私の周りのすべての人を殺し尽くし、食い尽くしていた。
家族、友人、学校の先生、近所のおばさん、その子供たち、有名人、著名人、時々すれ違うどこかの知らないサラリーマン、2ヶ月前に行った家族旅行先の旅館の仲居さん、そして大好きな渡辺君。
知っている人も知らない人もすべてを貪欲に殺しているのに、そこに何故か一度もカシワギマサハルの姿はなかった。
どうしてだかはわからない。
ただ、それが私が多少なりともカシワギマサハルに接してみようと思ったきっかけであることに変わりはなかった。
「僕にはね、変わった力があるんです」
カシワギマサハルは私に白湯を出してそれを一口のませてから話し始めた。
「人は霊能力とか超能力とか発達した第六感とか呼びます。僕は自分の力に名前を付けるのを好みませんので、ただ単に力と呼ぶのですが」
一通り前置きをした後に、私が必要以上にカシワギマサハルのことを怖がっていないというのを見て取ると、本題に入った。
「僕の力は恐らく春野さんの苦しみを抑える事ができると思います」
私はカシワギマサハルに夢の事を語ったことはもちろんない。もしかするとお母さんあたりが何かの世間話のついでに話したのかもしれないが、カシワギマサハルは世間話レベル以上の事を知っているような達観したまなざしをまっすぐ私に向けていた。
その瞳が私を貫いて私の奥にあるものに厳しく向けられる。
「それは痛いの?つまり、私の苦しみを抑えるということをするのは」
「痛くはないですよ」
座卓の上に綺麗に並べられたカシワギマサハルの指は長かった。つめも綺麗に切りそろえられていて彼の性格がうかがえる。私は反射的に自分の指を隠した。
指に今の精神状態が表れてしまう、ということを恐れるかのように。
「痛くはないですし、春野さん自身は苦しくもないです。ただ少し、気味が悪いかもしれませんね」
「大抵の気持ち悪さには耐えられると思います」
自分の脳をかき混ぜて口に入れるような夢をリアルに毎晩見る私が、今更どのような気味の悪さを恐れるというのだろうか?
カシワギマサハルはすべて承知しているとでもいうように、何も聞かなかった。だから私もあえて話さなかった。
そのかわり、一つ聞く。
「こんな風になってしまったのが何故なのか、知ってるなら教えてください」
多分カシワギマサハルは知っているのだろう。長い指は微動だにしない。私の指は少しずつ体温を失う。
「少し長い話になりますが、かまいませんか?」
私は黙ってうなずいた。